SSブログ

高麗橋 [夢のあと]

昨日、週一の出社のあと、定時に退社して向かったのは
kourai01.JPG
kourai02.JPG
東横堀川にかかる高麗橋。
創業時の京阪が、天満橋南詰からこの橋の東詰まで免許線を有していたこと、その免許に則って路線を延長しない代わりに、市電に乗り入れる契約を大阪市と交わし、その後、この契約が半ば反故にされる形で、大阪市内への乗り入れを、天満橋南詰までで断念せざるを得なかったこと、大阪市との契約では阪神も同様で、阪神も市電に乗り入れて高麗橋を目指しながら実現しなかったことは有名です。(京阪と大阪市の経緯については、長く京阪を主導した太田光熈の自伝
http://ktymtskz.my.coocan.jp/kansai/keihan3.htm#7
をご参照ください。)
ではなぜ、京阪が高麗橋を目指したかといいますと、この橋が、実は豊臣秀吉の大坂築城以来、ずっと大阪の中心だったからです。
すなわち高麗橋は、大阪城の外濠である東横堀川の東側の官庁街と、西側の、江戸時代であれば鴻池、三井その他の大店が、明治以降も銀行や証券会社などが立ち並ぶ、米国流にいえばダウンタウンとを繋ぐ橋であって、大阪に12あった公儀橋の中でも最も格式が高い橋でした。
その欄干には、公儀橋であることを示す擬宝珠が飾られるとともに、橋の西詰には櫓屋敷と呼ばれる、大坂城警護のための櫓が建てられていたといいます。
1929(昭和4)年に架け替えられた現在の橋は3連のコンクリートアーチ橋ですが、ご覧のように欄干には擬宝珠が飾られ、
kourai03.JPG
また櫓屋敷を模した飾灯が設けられています。
kourai04.JPG
さらに、橋の東詰めには、かつて江戸幕府の公式発表である御触書を掲示する制札場が設けられるとともに、諸地方への距離を測る起点も、この地に設けられていました。
kourai05.JPG
今は梅田新道にある里程原票も、明治の初めにはここに置かれていました。
kourai08.JPG
要するに、この地は京都の三条大橋
https://ho-blog.blog.ss-blog.jp/2020-01-18
と対をなす存在だった訳で、京阪としては、三条大橋東詰と高麗橋東詰とを結ぶことが最終目的だったと推測されます。
写真は、大坂夏の陣で徳川方の安藤重長が戦利品として持ち帰り、多くの所有者の手を経て今は大坂城に保管されている、慶長9年銘の、高麗橋のものとされる擬宝珠のレプリカです。
kourai06.JPG
kourai07.JPG
高麗橋のすぐ近くには、この地が大阪のダウンタウンであったことを示す旧大阪証券取引所と、明治期に大阪経済を主導した五大友厚の銅像が建っています。
kourai09.JPG

nice!(34)  コメント(4) 

nice! 34

コメント 4

YUTAじい

おはようございます。
永谷園・・・未だにキャンペーン継続中です・・・( ´艸`)

by YUTAじい (2022-07-13 06:20) 

青い森のヨッチン

由緒ある橋の上に高速道路?は日本橋(江戸)と同じですね
by 青い森のヨッチン (2022-07-14 13:38) 

hideta-o

YUTAじいさま
ご訪問ありがとうございます。昔は広重の五十三次だけだったのが、種類が増えた時期がありましたね。
by hideta-o (2022-07-18 09:59) 

hideta-o

青い森のヨッチンさま
都心部に高速道路を走らせることになった際に、空いている土地が、都心部を流れる堀や川(江戸時代には、堀や川が高速道路の役目を担う舟運に利用されていました)の上だけだったのが要因でしょう。
by hideta-o (2022-07-18 10:02) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。